<冬のコロナ対策>

わが国におけるコロナ災禍の第一波は、気温の上昇とともに沈静化したかに見えた。だが、その後真夏に第二波が訪れ、冬季を迎えて第三波が到来した。そもそも、冬季に感染が本格化することは予想されていたが、それは、ウイルス性の疾患が総じて冬季に流行するという事実に基づいている。地方においても、早期に気温が低くなる地域から流行が始まった。また、真夏の北海道では全くと言って良いほど感染者が増えることはなかったのに、冬季に入るや否や、猛烈な勢いで感染者が増え続けている。こうした周辺事実から総合的に判断すると、コロナ対策として最も有効な手段が自ずと明らかになってくる。

それは、人が薄着で過ごせるほどに室温を高く保つことと頻回の換気をおいて他にない。真夏にコロナが増えた原因が冷房であることは明白なのだ。何故なら、冷房設備を持たない北海道における真夏の感染は抑制されていたからだ。他の地域では夏の到来とともに冷房が機能したため、室温と換気の頻度が低下してコロナウイルスが再び活性化してしまったのだ。故に、最も効果的なコロナ対策は、可能な限り室温を高く保つことと頻回に換気を行うことだと言えるだろう。商業施設をはじめ、大勢の人間が集う場所では、暖房設備によって最大限室温を高く保つことが肝要である。その一方、個人レベルでは、厚着をして気温の低い場所では決して長時間を過ごさないことと、こまめに水分を摂取して咽頭の湿潤状態を保つことが最良の防衛手段となるだろう。

<実在とは何か>

■万物が一体であるとはどういうことか
ベルの不等式の破れにより、物理的に証明されたこの世界の究極の神秘は、この宇宙が一体であり、互いに影響を与え合っているという事実である。これは、この地球で起こる出来事と、宇宙の果てで起こる出来事とが、影響の大小はあっても、互いに関わりあっているということを意味する。そこから導き出される結論は、我々が普段みかける愉快なニュースも不愉快なニュースも、究極的には己自身の日常の選択と無関係ではないということだ。この世界の片隅で起こるいかなる出来事も、必ず己自身の何かの選択と関りがある。
これは思いの他、この世界がオカルティックにできているという証でもある。

量子物理学によって万物が一体であるという科学的事実が導き出されるよりもはるか以前から、先人たちはこの事実を認知していて、実生活に役立てていたのかも知れない。例えば占星術と呼ばれる星々の科学をあげることができるだろう。占星術ときいて、まやかしだと決めつけるのは早計だ。なぜなら、天空の星々の配置から吉凶を占う技術は、洋の東西を問わず、世界中の文化圏の歴史にその痕跡を残しているからである。おそらく、聖賢たちは星々の配置がもたらす霊妙な力の働きを熟知して体系化していたに違いない。そして、それが占星術という形で伝承されてきたのではないだろうか。
確かに、ほんの少し前まで、この伝統的な技術は現代科学にとっては理解不能な分野だった。天体の配置と人々の健康や知力、あるいは運勢との間に何の因果関係があるのか、全く根拠を見いだせなかったからである。ところが、万物が一体性を持つという事実が明らかにされた現在、そこに何らかの関係性や法則性があったとしても、全く不思議なことではなくなってしまったのだ。

■人間、この神秘的なるもの
そもそも、生命現象はすべからく神聖な力の働きなくしては維持不能であるにも関わらず、現代科学はそのほとんどについて何も知らずにいる。にもかかわらず、そのように不完全なものに依拠する常識でもって古の科学を迷信だと決めつけるのは現代人の驕り以外の何物でもない。おそらく、現代の多くの人々が思っているよりもはるかにこの世界は神秘的で、知れば知るほど驚きに満ち溢れているに違いない。同様に、我々人間存在もまた、我々が思っているよりはるかに神秘的な側面を持ち合わせていることだろう。

宇宙の神秘を知れば知るほど、この宇宙は極めて緻密なプログラミングをもとにしてデザインされていることに気づかされる。その構造は極小から極大まで相似形をとったフラクタル構造を示している。それはまた、この宇宙をデザインした存在に優れた知性のあることを証するものだ。実際、ほんの少しでも現在求められている物理定数と数値が異なれば、恒星や惑星といった天体は存在せず、宇宙を知覚する知的生命の誕生もなかったのだ。ひょっとすると、我々の宇宙とは別に、知的生命体を持たない宇宙も無数に存在しているのかも知れないが、認識する客体がなければ、それらの宇宙はないも同じである。つまり、この宇宙は、我々人間様が観ていればこそ存在できる存在だといえるのだ。

■意識がつくる世界
光や電子は粒子性と波動性がからみあって存在しているが、それらは観測者が観測する、即ち観測者の意識が介在することによってはじめて粒子として存在するか波動として存在するかが定まる。逆に言えば、客体が観測しない限り、光や電子は、その性質が定まることなく宙ぶらりんで収束しない。
物質を構成する素粒子には、すべからくこの種の二重性があり、量子物理学的には、「誰も月をみていないときには月が存在しているかどうかは定かでない」という立場をとる。
これは我々の日常的な感覚からは大きく逸脱しているが、我々が実在だと信じて疑わぬこの世界は、ミクロな世界においては極めてあやふやでいい加減な性質を持っていることが明らかなのだ。そして、そのあやふやな存在の集合体として現実世界が形作られている以上、マクロな領域も、それらの性質に従わざるを得ないわけである。

■胡蝶の夢
もし、宇宙を認識している客体としての誰かの意識が途絶えた場合、量子論的にいえば、その人が観ていた宇宙はその存在をやめてしまうことになる。宇宙は虹のような存在に過ぎず、皆が同一の宇宙を眺めているとは限らないからだ。
この世界をシミュレーションゲームの空間だと仮定すると、プレイヤーが遊ぶのをやめることと意識が途絶えて宇宙が存在をやめることとは似ているかも知れない。プレイヤーが遊びをやめれば、履歴を保存しない限り、その世界は消滅してしまう。存在とは、あくまでそれを観測する客体とセットなのだ。これは同時に、我々が観る宇宙はあくまでプレイヤー目線の宇宙なので、その宇宙はプレイヤーの選択によって、いくらでも姿かたちを変えてしまうという意味でもある。

実際、似たような発想は既に提唱されていて、シミュレーション仮説と呼ばれている。この世界は別の文明によって設計された仮想現実ではないかというわけだ。映画であればマトリックスのシリーズを例に挙げることができるだろう。我々が現実だと信じている世界は、虚構かも知れないという発想だ。そもそも、我々の生きる世界が仮想現実であるとする発想は、既に数千年の歴史を持つ古代インドの思想でも語られている。この世界での輪廻転生の営みは、神のリーラ(遊び)であると。要するに、神にとっての仮想現実としてこの相対世界があり、神自身が多様なプレイヤーとなってシミュレーションゲームを遊んでいるという思想である。

■変容のいざない
量子論的には、我々の意識が誰かを観測したときに初めて相手の存在が収束するため、対面していない時の相手は確率の海の中に沈む。逆にいえば、我々が対面するあらゆる人々は、誰もが皆、我々自身の意識によって何らかの修飾を受けた存在であるということができるのだ。故に、己自身が変わると、対面する人々も変化を余儀なくされることになる。
これは、「相手を変えようとしても決して変わらないが、自分自身の意識を変えることによって相手を変えてしまうことができる」というメカニズムをいみじくも説明している。
自分自身の意識が変われば、自らが暮らす世界の有り様も変わるという意味だ。この、自分が変わることで世界が変わるという言説は、古の哲学に着想を得た自己啓発セミナーにおけるキャッチコピーの定番だが、そのメカニズムは量子論的に説明することができるというわけである。

ところで、我々の意識は本当に肉体の死によって途絶えてしまうのだろうか。古来より死後の生を語る思想においては、意識は肉体の崩壊後も途絶えることがなく連続すると信じられている。もし、そうであるなら、その意識が認知する宇宙については量子論的な解釈での消滅を免れることができるだろう。逆に、死ねばすべてが終わり、意識も途絶えてしまうというのであれば、人の死は一つの宇宙の終焉を意味することになってしまう。

■実在とは何か
今、我々の暮らす宇宙があり、そこに生きる人間存在としての個人があり、これを「私」と呼ぶ意識の営みがあるのは間違いがない。誰にとっても真の実在とは、今ある己の意識をおいて他にはない。しかしながら、「私」が「私」であるというパーソナリティーの根拠は、記憶の蓄積でしかない。記憶を失った瞬間、我々はパーソナリティーを失ってしまうわけである。では、「私」とは一体誰のことをいうのだろうか。

日本神道の神器には鏡がある。鏡(カガミ)から我(ガ)がとりのぞかれると神(カミ)になる。これは、鏡の前に立って映る姿は皆、誰もが本当は神であるという教えなのだ。我々自身が、自らが神であるという己の素性を忘れた神そのものであるなら、人生の目的とは味わいに他ならない。
賢者として生きる人生もあれば、愚者として時間を貪る人生もある。富豪として暮らす人生もあれば貧困にあえぐ人生もある。高潔に過ごす人生もあれば罪人として終える人生もある。
因果応報の法則に支配されつつも輪廻転生の営みを続け、あらゆる人生を味わい尽くして解脱に至る神の遊びが人生だと最古の宗教は伝えている。即ち、唯一無二の神だけが実在なのだと。

<人生とは何か>

■神とは何か
日本には、人が生きたまま神として崇められたり、亡くなった後、神として奉られたりする慣習がある。また「死なば皆仏」という、西洋人からすれば、随分と乱暴な思想もある。この他にも、人間以外の生き物を神の化身だとか神の使いとして崇める文化がある。
世界でもっとも古い歴史を持つインドの思想では、この世界は唯一無二の神の意識が表現されたもので、個々の生命は神が己の素性を忘れて多様な姿を纏って顕現したものだという。そして、そのように誕生したあらゆる生命の意識は、輪廻転生を繰り返して己の意識を進化、深化、神化させたのち、神の意識との合一に達して輪廻転生のくびきから解き放たれ解脱に至るのだと。即ち、もともと神であったものが己の素性をとりもどすための壮大な遊戯が人生だとされている。

■人間とは何か
そういうわけで、インドには、瞑想や修行によって神の意識に到達した人を聖者として崇める文化がある一方、神が人の姿に化身して人々を救うという思想もある。即身仏の由来も同種の思想にあると考えれば、日印間で思想的に深いつながりを見出すことができるかもしれない。生きとし生けるものは全て神の化身であるという認識が根底にあるから、人が神として崇められる風習が日印に存在するのではないだろうか。
人の裡に神の姿を観る、即ち、困っている誰かを助けるその手に神が宿るという発想が、日印の文化には根付いているわけである。
人は時として神のようであり、かつ獣のようでもあり、神と獣の間にある何者かが人間なのだ。「神とは何か」について考えることは、「人間とは何か」について考えることと同義であって、人道とは神に至る道のことを指しているのである。

■人間原理という思想
一方で無神論者は、神の存在を否定する材料として、人間原理の考え方を用いることがある。この場合の人間原理とは、神という概念は、人間のように発達した大脳をもつ生き物がつくりだした幻想に過ぎないという考え方だ。要するに、人間がいなければ神は存在しないというわけで、神は人間の被造物だと解釈する。
ここで実在とは何かにつて思いを巡らせると、客体によって認知され得ることが条件となる。女性がどれほど美しく着飾っても、それを見て褒める男性の存在なしにはオシャレはないも同じで、神が実在するためには、神を想う客体の存在が必要不可欠なのだ。それ故に、人間が創造されたと考えることができるだろう。
これは即ち、見方次第で人間原理は神の存在証明にもなり得るということだ。神を想う人間の存在が、とりもなおさず神の実在の証であるというわけである。神が己の似姿、御霊分けとして人を創ったという発想も、こうした考え方に矛盾しないことだろう。

■宇宙の入れ子構造
人間を形作る最小単位として細胞があり、その数は実に37兆2000億個だ。そして驚くべきは、そのささやかな細胞の一つ一つすべてに、人間を丸ごと形作るための遺伝情報が含まれているという事実がある。たった一つの細胞とて侮ることはできないというわけだ。仮に、人間がこの壮大な宇宙を形作る細胞の一つに過ぎないのだとしても、人間一人分の内側には宇宙一個分の情報が含まれているかもしれない。この宇宙はマトリョーシカのごとく入れ子構造になっており、金太郎あめのごとく、どこを切っても同じ顔かたちがでてくる仕掛けになっているからだ。

■唯一無二の存在
そもそも、一個体の誕生と死は一つの宇宙の誕生と終焉を意味すると言っても過言ではない。なぜなら、我々が観ている世界は、あくまで一個人が観測している世界であって、同じ世界を別の誰かと共有しているという保証はどこにもないからだ。
この世界を観るのは虹を観るのと似ていて、誰かが虹を観るとき、皆で同じ虹を観ていると思うのは間違っている。なぜなら、虹は必ず観測者が太陽を背にした正面に見える現象であるため、皆で観ているはずの虹は、その人だけが観る唯一無二の虹なのだ。同様に、この宇宙もまた、その人だけが観る宇宙であるため、その人が最期を遂げるとき、その宇宙もまた終焉を迎えるわけである。
それ故、観測者の意識の内側にこそ、宇宙を統べる神の宿りがある。万物は不可分で一体であるために、他ならぬ観測者自身の意識が、その宇宙全体のあり様を変えてしまうからだ。
たった一つの細胞に人間一人分の設計図が含まれているのと同じように、我々一人一人の意識の中に、宇宙を創造した神の意識が隠されているのだ。そして、その至宝にたどりつくまでの壮大な旅路が人生であり、一つとして無駄な人生は存在しないに違いない。ただ観測者には旅路の果てが見えていないだけなのだ。旅の醍醐味とはこれ即ち味わいである。

<宗教的希求とは何か>

■宗教的希求の芽生え
小学生のころ、食卓に並んだタラコを目の前にして、その一粒一粒が命だという衝撃にうちのめされ、飯がのどを通らなくなったことがある。その数年後、輪廻転生の思想を知って救われたような気になったものだが、どうして救われたのか、その理屈は当時の自分にはわからなかったので、その後ずっと考え続けることになってしまった。

考えても答えが出せないことは考えないというスタンスは、一見、潔いようでいて、実は非常に危うい。そういうスタンスでは内面に明確な判断基準が存在しないに等しいので、己の生き死にに関してさえ、時の気分で動いてしまうのを避けられない。
確かに、存在に関する問いには答えがないが、時の気分にさらされても自分を見失わないためには、何らかの思想でもってそれを補う必要がある。どうして我々が存在するのか、何のために生きているのかという問いの答えである。

勿論、そういう問いに答えを持たずとも、ただ生きるだけなら、処世術に長けてさえいれば十分だ。あとは法に背かない範囲で欲望に忠実であれば良い。ただの処世術を自身の哲学だと勘違いしている輩は割と多く、そういう相手と話をしても、得るものは何もないと感じることが多い。

実際問題、人は苦しみの根が深くなると、処世術だけでは選択に迷いを生じるようになる。苦しみに鈍感であれば苦悩もなく、能天気に生きられるのだろうが、無視できないレベルにまでそれが達すると、答えのないものに答えを求めざるを得なくなる。これが宗教的希求だ。
歳を重ねると霊場巡りをしたがる人がいる理由もまた、宗教的希求の発露だといえるだろう。目には見えない何者かを敬い、これに憩う気持ちを抑えきれなくなってしまうのだ。

■真理は一つ
物理学者は目下、この世界の物理法則を統一的に表す数式を見出そうとしている。それは造物主がどのような方法でこの世界をデザインしたのかを知ろうとする営みだ。興味深いことに、その数式の根幹をなす量子論は、かつて聖者のみが悟り得た存在に関する真理の一部を証明してみせた。ベルの不等式の破れによって、「万物は一体で不可分である」という卓見は科学的な事実となったのである。

存在の神秘は、それを本当に希求した者にしか姿を現さない。そして、そこにたどりつくために、我々はこの相対世界で苦しんでいるのかも知れない。苦しみによってその内面に真理への道が築かれていなければ、せっかく真理が目の前を通り過ぎても、それに気づくことすらできないのだ。真理は一つだと素朴に信じるとき、そこには信仰がある。そしてもし、そういう信仰がなければ、自らの選択に悩み続けることになるだろう。

■無自覚なる宗教的希求
度重なる日常の不幸体験によって精神のバランスを崩してしまった方々に接して感じるのは、そういう方々は自らの宗教的希求の高まりを自覚できず、どこに救いを求めるべきかを見失っているのではないかということである。

無自覚な宗教的希求の高まりという代物はとても厄介で、容易に人の心を蝕んでしまう。そういうときに選択を誤ると、果てしない迷路に閉じ込められてしまうようだ。
心の病は西洋医学に助けを求めても、一時的な避難場所を得られるだけで、本質的な問題の解決には至らない。確かに、科学の力は病を一時的に欺き、患者の当面の社会復帰には貢献できるかもしれない。しかしながら、科学は人間存在を本質的かつ根源的に救うことに関しては初めから興味がないのである。

古来、民衆の心の問題に向き合ってきたのは地域の寺社であった。現代ではそれが病院になってしまったが、その弊害は少なくないことだろう。治療薬の副作用で会話の受け答えがおかしくなってしまった患者に接するとき、心の病で病院にかかることと、得体のしれない新興宗教に取り込まれることとの間に、いかほどの違いがあるのかを疑問に思わずにはいられない。どちらも治るわけではないのにお金だけが奪われてしまうという点で等しいからだ。

■日本人は無宗教なのか
GHQによる国家神道の廃止以降、サヨク思想の蔓延とともに、日本では宗教に帰依することをタブー視する風潮が醸成されたのかもしれない。けれども、原始国家の成り立ちをみれば、個々の人間存在が生きる指針を見出し、国家が安寧を築くために、宗教が不要とされたことは一度もない。必ず、土着の信仰が人々の傍らにあったのだ。それを高々数百年の歴史しかもたない西洋科学的思想が否定し、嘲笑するのはおこがましいにも程があるというものだ。それこそは歴史の冒涜に他ならず、共産主義の為したもっとも大きな悪業だといえるだろう。伝統的な宗教を敬うのは、歴史を敬うことと同義なのだ。

よく、日本人は無宗教だとか、自分は神を信じないという人がいる。けれども、それは大いなる勘違いだ。歴史の長い日本にあって、宗教は鍋で煮込まれたカレーの具材のごとく、元の形を失って文化の中に溶け込んでいるに過ぎない。目に見える形がないからといって、ジャガイモ自体、なくなってしまったわけでは決してない。その姿がみえなくとも、そこに人参があり、ジャガイモがあるのが日本の宗教なのだ。日本人として生活する中で、それら固有の形をもたない信仰の影響を受けつつ、我々は日常を送っているのである。

もとより、信仰と宗教とは似て非なるものだ。自分自身が何に依拠して存在するのかに答える道理、その道理には何ら客観的な根拠がないが、それを信じることなしには己の存在意義が危うくなってしまうという、自らの存在意義を納得せしめる道理が信仰だ。信仰を後世に伝える手段として宗教があり、そこには歴史と伝統がある。とすれば、ジャガイモが溶け込んでしまった日本の場合、信仰を得るのに特別な宗教に帰依する必要はないのかもしれない。

どれだけ無神論者を標榜する人であっても、自らが本当に進退窮まった際や、愛する人が窮地に陥った場合に、人智を超えた何者かに救いを求めずにはいられないものだ。日本人の場合、信仰をもたない人が多いのではなく、自らが何を信じて生きているのかに自覚のない人が多いだけなのかもしれない。ジャガイモの姿かたちがなくとも、そこにジャガイモの味わいがあるというわけである。

<受験小論文にチャレンジ‼その3>

■「命の尊厳とは何か」について、600字以上800字以内で記せ

自殺や殺人など不祥事のあった学校の教育者が、「命の尊さと大切さを伝える教育を徹底したい」だとか、「命が一番大切」だとかのたまう様をテレビで観ると、命は本当に一番大切なのだろうかと疑問に思わずにはいられない。

実のところ、命が一番大切という主張には何の根拠もない。命の価値など所詮は相対的で、だからこそ、我々は他の命を犠牲にしてこれを食し、自らの命をつなぐことができるのだ。道端の蛙と人間様の命が等価であるはずもなく、人間社会にあっても、緊急時、供給できる医療資源に限りがあれば、命の選択は不可避となってしまう。
命それ自体に普遍的で絶対的な価値があるわけではないという厳然たる事実に抗えないからこそ、我々は自ら命を絶ち、他人を殺めずにはいられないのだ。人類の歴史に残虐性が付きまとうのもそのためである。故に、命が一番大切だから自殺や殺人が駄目なのだと言われても、何の説得力もないことだろう。

では、命の尊厳とはどこにあるのだろうか。ただ、飯を食らい、クソをたれるだけが命なのだろうか。命の尊厳を言うのであれば、命の絶対的な価値を説く道理が必要となる。あらゆる生命は何のために生きるのかという道理だ。
古来、目に見える生命現象を超えた霊的存在としての生命こそが命の本質で等価なのだと宗教は伝えてきた。そして、それを前提としてはじめて、あらゆる生命に絶対的な価値が付与されることになる。それを真理と仰ぐのか、あるいはそうであるかのごとく仮想するのかは各々の判断に委ねられるが、それなくして命の尊厳を説くことは不可能であるに違いない。

結局、命の尊厳は、何のために生きるのかという宗教的希求を満たす信仰によってしか説明不能な観念であり、目に見える命それ自体には相対的な価値しか存在しない。宗教を排した現代教育が本当の意味で命の尊さを説くのは荷が重すぎるといえるだろう。
776文字

<受験小論文にチャレンジ‼その2>

■「どうして自殺してはいけないのか」について600字以上800字以内で記せ

自殺や自死、あるいは尊厳死は、言葉は異なるが、自らの意思で死を選択するという点で等しい。だが、その実態には様々な事情があり、それらを「いけないこと」であると一括りにすることは誰にもできない。故に目下、自ら死を選んだことに対してこれを罰する法律はないし、死んでしまった者を罰する術もない。

人は選択を積み重ねる生き物であり、人生をゲームに例えるなら、自殺はリセットボタンを押すようなものである。しかしながら、ゲームと違って次の人生が保証されているわけではない。次のゲームがないと信じて生きる人もいれば、あると信じて生きる人もいるというだけだ。個人的には後者だが、だからといって気安くリセットボタンを押す気にはなれない。リセットの代償もまた相応に存在するに違いないと信じているからだ。

人が死を選択する理由は各々異なる。多くは現状からの逃避であるかのように思われがちだが、いじめが元で自殺する子供の場合、そこにはいじめっ子や、いじめに無策な学校に対する抗議や復讐の側面をはらんでいるようにもみえる。他方、事業に失敗して死を選ぶような場合、絶望のみならず自己犠牲的な側面や贖罪としての意味合いがあるのかもしれない。家族に保険金が残されるようなケースであれば尚更だ。事程左様に自殺の意味を一概に分類することはできない。

そもそも、人には大義のために命を差し出せる気高さがある。愛する者のため、自らが信じる正義や美学のため、何かしら己の命を超える価値あるもののために死を選択することを自殺の二文字で片付けてしまうのは間違っている。とはいえ、残される人々の苦悩に想いを巡らせることを決して忘れてはなるまい。誰もが皆、選択を間違える生き物であり、間違いに気づくためのチャンスもまた必要だからだ。シンデレラの物語は、主人公が継母や義姉のいじめに悲観して自殺してしまっていたのでは成り立たないのである。
788文字

<受験小論文にチャレンジ‼その1>

受験生の息子が塾で課された小論文に屁理屈オヤジがチャレンジしてみた。

■「どうして人を殺してはいけないのか」について、600字以上800字以内で記せ

人を殺すということは、相手の生きる権利を奪うということだ。故に、権利の保障という観点でみれば人を殺すのはいけないことだが、それは必ずしも定理ではない。戦争では相手を殺すことが使命となるからだ。人類の歴史は戦争に彩られた殺し合いの軌跡だが、人類はその「いけないこと」を何故かくも延々と行ってきたのだろうか。

戦争そのものは、国家が領土や資源をめぐって行う争いの延長にある。少なくとも第一次大戦前までは、戦争は国家間の利益分配を折衝するための政治手段であると同時に、公共投資だった。国内に失業と不況がはびこれば、戦争は失政から世間の目を欺くための手段でもあったし、失業者に職業を提供する公共事業としての側面も持っていたのだ。

しかしながら、二度の世界大戦によって各国は総力戦を経験し、戦争では勝敗によらず、国民が多大な損害を被ることを学んだ。核兵器という都市破壊兵器の登場が、よりいっそう戦争の悪質な側面を強調するに至り、戦争は悪という価値観が多くの人々の間で共有され、大東亜戦争以後、世界大戦は回避されてきた。皮肉にも、大量破壊・殺戮兵器の存在が、かりそめの平和を生み出したともいえる。こうしたわけで、現代では戦争は人殺しで、人殺しは悪だ、故に戦争も悪だ、といわれても、そこに大きな矛盾を感じる人は少ないのかも知れない。

とはいえ、愛する家族や同胞の命が侵略者によって理不尽に狙われている状況で、手元にある武器を使用せず、殺さずを貫くことが果たして正しいのだろうか。確かに、戦争に際して人殺しを命じるのは国家であるが、一方で国民の生きる権利を保障してくれるのもまた国家なのである。あらゆる権利は健全な国家なくしては画餅に過ぎないのだ。結局のところ、人を殺してはいけないというのは、侵さず殺さずの不文律を互いが堅持できてはじめて成り立つ定義ではあっても、証明がかなった定理ではあり得ない。
789文字

<ある学校長にあてた手紙>

前略  御多忙にも関わらず、お返事をいただき深謝いたします。この国難に際し、ご判断に苦慮せざるを得ないお立場に同情の念を禁じ得ません。しかしながら、かくなる状況においては、行政判断を仰いでいるだけでは互いに身を守ることができない可能性があります。そもそも、このパンデミックが何故起こってしまったかといえば、見方次第ではWHOのミスリードに行政が追従していたからだといえるかもしれません。さすれば、国民一人一人が情報を広く収集して己の身を守る術を考える必要があると申せましょう。

今回の新型コロナウイルス感染の流行は1918年のスペイン風邪以来のパンデミックです。スペイン風邪では二年間にわたって流行が継続し、世界で数千万人が死亡、日本でも30万人以上が死亡していますが、収束した理由は今もって定かではありません。研究によればインフルエンザウイルスによるものだったそうですが、当時は第一次世界大戦の影響で、栄養失調他の要因で二次的な細菌感染を起こして大勢死んでいたものと考えられています。

実際、インフルエンザの場合、ウイルス感染で直接人が死ぬわけではなく、二次的な合併症で死亡するケースが大半であるため、死までの過程は比較的緩徐です。故に、現在は医療が様々に介入して命を救うチャンスもあるので、それで死ぬとしても、元々他の要因で死に近い人が死ぬだけの話です。一方、新型コロナウイルス感染の場合、間質性肺炎と呼ばれる特殊な肺炎を来すために、重症化した場合、患者はいわば溺れ死ぬように急速な呼吸不全に陥って死んでしまう場合があるのが特徴です。
通常の気管支肺炎の場合、肺を構成する肺胞と呼ばれる小さな風船の中に痰が詰まってガス交換に支障を来すのに対し、間質性肺炎の場合、風船の壁が炎症性に分厚くなってガス交換が損なわれます。前者は感染巣が限局して健常肺が多く残されるので、低酸素血症は比較的軽症で済むのに対し、後者は病巣が両側肺野の広範囲に及ぶので、低酸素血症が重篤となってしまうわけです。

故に、現行のごとく患者の自覚症状頼みで自宅療養を促すやり方は大変危険で、患者は自宅で突然容体が悪化して呼吸不全に見舞われ、助けを求める間もなく死んでしまう可能性もあります。かといって疑わしきを全て検査し、入院させていたのでは医療資源が枯渇して医療崩壊を誘発してしまいます。一旦医療崩壊が起これば、単純に酸素吸入するだけで助かる命さえも助からなくなってしまい、インフルエンザとは比較にならない勢いで身近な人が次々に亡くなる事態を招くことになると考えられるのです。

大雑把に言ってウイルスはDNAウイルスとRNAウイルスとに分類されますが、前者は構造が安定しているため、これに対して人間は終生免疫を獲得したり、効果的なワクチンを作成して予防することが可能である一方、後者は変異のスピードが速いため、我々がこれに一度感染、治癒しても再び感染するリスクを伴います。
実は、インフルエンザウイルスや新型コロナウイルスは後者であり、集団免疫を獲得して封じ込めるという現行の戦略にどの程度期待できるかは定かでありません。イギリスの研究によれば、このウイルスは二週間ごとに変異を繰り返しており、かつてスペイン風邪がそうであったように、流行の第一波が去っても、第二波、第三波が予想されるのです。
当然ながら、変わり身の早いウイルスに対して有効なワクチンを作るのは至難の業で、毎年ワクチンを接種しているのにインフルエンザに罹患する人々が後を絶たないのはそのせいでもあります。付け加えれば、コロナウイルスに有効なワクチンを開発した実績が未だ人類にはありません。つまり、ワクチンの開発と普及を待っていたのでは、収束はいつになるかわからない状況であるといえます。

では感染の収束が絶望的かといえば、そうでもありません。わが国が開発したアビガン、ストロメクトールなどは、新型コロナウイルスに対して極めて高い治療効果が期待される上、人体への安全性も大方確認済みの薬だといえます。よって、既に効果と安全性の両方が確立されている既存の治療薬をできるだけ早く大量供給し、疑わしきを罰するやり方で早期治療を徹底、重症者の発生を抑制してしまうという政策が採択されれば、現在のような行動制限を早期に解除、経済活動を再開しつつ、医療崩壊を防ぐことができると考えられます。逆に、そういう状況にならなければ、スペイン風邪に鑑みる限り、二年程度は現状が続くことを覚悟しなければなりません。

目下、奇跡的にわが国の死亡者は他国に比べて少ない状況ですが、油断は禁物です。一か月前のイギリスの死者数は現在の日本と変わらない状況でしたが、たった一か月でその50倍以上の二万人近くまで激増してしまいました。一人の患者が二名以上に感染させる計算で患者数は指数関数的に増大するので、なだらかな増加傾向だった感染者数が突然激増するのは当然の帰結です。
残念ながら、わが国が発令する緊急事態宣言には強制力がなく、感染封じ込めにはほとんど無効であるため、その意味するところは治療薬の大量生産とワクチン開発までの時間稼ぎに過ぎません。故に、先の薬の大量供給が間に合わなければ、結局は国民全員がウイルスに暴露され、淘汰を受けることになると予想されます。最近の報告のうち、朗報は子供間では感染が起こりにくいことを示すデータがあること位ですが、残念ながら海外では小児でも重症化や死亡例が報告されているので、登校再開を安全視できる根拠は全く見当たりません。

さて、ここまで長々と下らない蘊蓄をご高覧いただきましたが、今後の学校運営方針をご決断いただく判断材料の一つに加えていただければ幸甚です。新型コロナウイルスは、世代別の致死率からみても、校長先生や学園長先生にとって最も危険なウイルスであるのは間違いなく、誠に僭越ながら細心の注意を払って対応していただくことを切望する次第です。  草々

<新型コロナウイルスの何が怖いのか>

通常のインフルエンザ感染の場合、インフルエンザウイルスで直接人が死ぬわけではなく、二次的な合併症で死亡するケースが大半で、死までの過程は比較的緩徐である。故に、医療が様々に介入して命を救うチャンスもあるので、インフルエンザ感染で死ぬとしても、元々他の要因で死に近い人が死ぬだけの話だ。一方、新型コロナウイルス感染の場合、間質性肺炎と呼ばれる特殊な肺炎を来すために、患者はいわば溺れ死ぬように急速な呼吸不全に陥って死んでしまう場合がある。
通常の気管支肺炎の場合、肺を構成する肺胞と呼ばれる小さな風船の中に痰が詰まってガス交換に支障を来すのに対し、間質性肺炎の場合、風船の壁が炎症性に分厚くなってガス交換が損なわれる。前者は感染巣が限局して健常肺が多く残されるので、低酸素血症は比較的軽症で済むのに対し、後者は病巣が両側肺野の広範囲に及ぶので、低酸素血症が重篤となってしまうわけだ。

故に、現行のごとく患者の自覚症状頼みで自宅療養を促すやり方は大変危険で、患者は自宅で突然容体が悪化して呼吸不全に見舞われ、助けを求める間もなく死んでしまう可能性もある。かといって疑わしきをすべて検査し、入院させていたのでは医療資源が枯渇して医療崩壊を誘発してしまう。一旦医療崩壊が起これば、単純に酸素吸入するだけで助かる命さえも助からなくなってしまい、インフルエンザとは比較にならない勢いで身近な人が次々に亡くなる事態を招くことになる。

こうした医療崩壊は既に欧米で現実化したが、そこに実感がわかないという場合、お勧めの映画がある。感染列島という題名の邦画で、2009年公開の作品であるにも関わらず、感染爆発の起こった日本を見事に描写し、さながら予知映画の様相を呈しているので必見だ。驚くべきことに、この映画で描かれたことは、他国ではほとんどすべて実現してしまったのである。映画ではワクチンの開発により感染が収束したが、現実はどうだろうか。目下、緊急事態宣言は特効薬の大量生産とワクチン開発までの時間稼ぎに過ぎず、それらが間に合わなければ、結局は国民全員がウイルスに暴露され、自然淘汰を受けることになるだろう。

確かに医療崩壊は怖い。しかしながら、経済崩壊はもっと怖い。人が死ぬのは医療崩壊だけではないからだ。医療崩壊ばかりを騒いで経済活動を犠牲にしていると、治安の悪化や自殺者の激増を招く恐れもある。医療と経済、どちらも我々にとっては不可欠で、どちらか一方だけを優先することはできないのだ。このまま経済崩壊が進むと、その先には戦争が起こる可能性もある。何故なら、為政者の失政に対する世論の矛先をかわす手段として戦争はうってつけだからだ。言うまでもなく、戦争には経済活性化の促進剤としても用いられてきた歴史がある。映画の感染列島では最後に人々が平和な社会を取り戻したが、終わりのない現実は核兵器の使用で始まる世界大戦へと突入するのかも知れない。

<早期治療によって重症者発生の抑制を>

つい先日、ノーベル賞仏人学者であるリュック・モンタニエ氏が、新型コロナウイルスが人為的な操作を経て生まれたものであると断定した。期を同じくして、イギリスのケンブリッジ大学のピーター・フォースター博士を筆頭とする欧米の研究者グループが、新型コロナウイルスには後述する三つの系統があることを明らかにしてみせた。ジャーナリストの中には、これをもって人造ウイルス説が否定されたと考える向きもあるようだが、必ずしもそうだとは言えない。なぜなら、その研究結果ではコウモリから人への感染過程が依然として不明のままだからだ。

人造ウイルス説によれば、コロナウイルスの表面には、生物の細胞と結合するためのスパイク蛋白と呼ばれる突起物があるのだが、ここが人為的に操作されたことにより、本来ならば人への感染がなかったウイルスが人に感染するようになったのだという。先の仏人学者は、数学者の協力を得て、このスパイク蛋白のゲノム解析から、確率論的にこう結論付けたわけである。いずれにせよ、新たな宿主を獲得した武漢肺炎ウイルスは、短期間に変異を繰り返して、より住み心地の良い宿主を標的に感染し続けた。武漢ではB型、アメリカではA型、ヨーロッパではC型が流行した。
武漢では最初にA型が研究室から漏れ出たと推測されるが、このタイプはアジア人より欧米人を宿主とする傾向が強かったため、すぐには武漢で拡散しなかった。しかしながら、これがアジア人を宿主に好むB型に変異してから急速に武漢で感染が広がったわけである。一方、武漢でA型に感染した米国人が帰国後にA型を拡散したと考えられ、欧州ではB型からC型に変異したウイルスが宿主に適合して猛威をふるったとみられている。ちなみに、日本で流行しているのはB型だ。

大雑把に言ってウイルスはDNAウイルスとRNAウイルスとに分類されるが、前者は構造が安定しているため、これに対して人間は終生免疫を獲得したり、効果的なワクチンを作成して予防することが可能である一方、後者は変異のスピードが速いため、我々がこれに一度感染、治癒しても再び感染するリスクを伴う。
実は、インフルエンザウイルスや武漢肺炎ウイルスは後者であり、集団免疫を獲得して封じ込めるという現行の戦略がどの程度有効であるかは定かでない。イギリスの研究によれば、このウイルスは二週間ごとに変異を繰り返してるらしく、かつてスペイン風邪がそうであったように、流行の第一波が去っても、第二波、第三波が予想されるのだ。当然ながら、変わり身の早いウイルスに対して有効なワクチンを作るのは至難の業で、毎年ワクチンを接種しているのにインフルエンザに罹患する人々が後を絶たないのはそのせいでもある。

では感染の収束が絶望的かといえば、そうでもない。日本が開発したアビガン、ストロメクトールなどは、武漢肺炎ウイルスに対して極めて高い治療効果が期待される上、人体への安全性も大方確認済みの薬だといえる。即ち、科学技術の発達した21世紀の人類が今回の騒動を終わらせる道は自ずと限られてくる。
既に効果と安全性の両方が確立されている既存の治療薬をできるだけ早く大量生産、大量供給し、疑わしきを罰するやり方で早期治療を徹底、重症者の発生を抑制してしまうことに尽きるだろう。これにより、現在のような行動制限を早期に解除、経済活動を再開しつつ、医療崩壊を防ぐことができるはずだ。もはや一刻の猶予もないが、政府の迅速な対応に期待したい。

<どうして日本は感染者数と死者数が少ないのか>

目下、医療崩壊の危機を迎えつつあるわが国ではあるが、依然として断固たる感染封鎖措置を講じていないにもかかわらず、欧米諸国と比較して感染者数、死者数ともに、際立って少ない。一時、BCGの予防接種がその一因ではないかと噂されもしたが、明確な根拠はなかった。
やはり、日本人の衛生的な生活習慣全般にその要因があると考えられるが、とりわけ優れているのは、土足で家にあがらない習慣ではないだろうか。

基本的に、人間には免疫機能が備わっているので、ごく少数のウイルスに暴露されたぐらいではすぐに重篤な感染にはいたらない。暴露されたウイルス量が個体の免疫機能のキャパシティーを超えた段階でハイリスクとなるだけだ。要するに、国外から入ってきた感染者の多寡が国家の感染者数の動向を左右するように、暴露されたウイルス量の多寡に、個人の容体が左右されるわけである。

もとより空気中を漂うイメージの強いウイルスではあるが、室内において最もその数が多くなるのは、やはり床上だろう。靴の裏には沢山のバクテリアが付着するわけで、これはウイルスとて例外ではない。とすれば、屋根と壁に囲まれた密閉空間に、靴裏に付着したウイルスが次々と持ち込まれてくれば、屋内に漂うウイルス量が増えるのは自明の理だ。人のくしゃみや咳、排泄によって拡散された分泌物は、その多くが必ず床に落ちるからだ。

故に、もっとも恐れるべきは、人々が土足で足を踏み入れ、尚且つ空気がよどんだ場所に長時間居ることだ。そのような環境下では、大量のウイルスに暴露されてしまうので、感染が成立してしまう。あらゆる商業施設、公共交通機関、西洋型のホテルがこれに該当する一方、土足で家にあがる習慣のある国では、家の中もまた同様の危険地帯と化す。欧米諸国と日本とで、これほど感染拡大の明暗が分かれてしまったのはそのせいだろう。

今日、靴の履き替えは不潔だからという理由の下、土足で病院にあがることがトレンドになって久しい。しかし、それは欧米諸国の理屈にかぶれた人たちの勘違いに過ぎないのではないだろうか。今後、大きな病院の次に院内感染を起こすのは、土足で患者を院内に招き入れるクリニックとなるかもしれない。

<武漢肺炎感染対策>

外来で高齢者たちは皆一様に武漢肺炎ウイルスの危険に対して不安気だが、若年者はなかなか実感がわかない様子だ。これは多分、致死率の年齢的な偏りによるものだろう。
しかし、考えてもみれば高齢者は皆、今他界したとしても、既に送った70年だか80年だかの人生が保証済みの恵まれたご身分である一方、若年者はこれから数十年を無事に過ごせる保証はどこにもない不確実な立場である。

確かに、武漢肺炎ウイルスは高齢者がより致死的ではあるが、若年者も死なないわけではない。とすると、保証のある側とない側、どちらも被るデメリットは大差ないようにも思える。だから高齢者は若い人たち以上に恐れる必要はないし、逆に若い人たちにはもっと用心深くあって欲しい。繰り返すが、この際、誰もが自分がかかるかどうかを問題視するより、自分が誰かにうつしてしまわないかどうかを意識して行動することが肝要なのだ。そうでなければ、自らの手で愛する誰かの命を奪い取ってしまうことになるかもしれない。

さて、これまでの国の対応を鑑みるに、日本政府は、はじめから台湾のような感染の封じ込めを意図してこなかったとみるのが妥当だ。感染爆発を起こさぬよう、感染のピークをなだらかにして医療崩壊を防ぎつつ、最終的に皆で罹患して集団免疫を獲得しようという方針が垣間見える。しかし、せっかく日本は四方を海に囲まれた島国なのだから、早々に空路と海路の感染経路を絶って、台湾に倣った封じ込めを展開していた方が、国内の経済活動や教育活動も一定程度維持し得たように思われるのだが。

台湾の政策はその道の専門家が決める。しかし日本では、単なる地域の人気者が決めている。この違いが露骨に表れたものが、コロナ対策なのかもしれない。

<武漢肺炎ウイルスの猛威>

人造ウイルス説によれば、2015年、武漢にある生物兵器研究所で、石正麗の関わる研究者グループが、コウモリに感染するコロナウイルスから人に感染可能なウイルスを作り出したのだという。人為的な操作を加えることがなければ、そのウイルスは人間に感染する種類のものではなかったというのだ。その真偽は定かでないが、この生物研究所の近隣から広がったウイルスは世界中で猛威を振るい、多くの都市機能をマヒさせ、あらゆる経済活動を混乱の極致に陥れている。
感染しても、八割の人が無症状か軽症であるにもかかわらず、残り二割は重篤化するというこのウイルス、今後は広島、長崎に落とされた原爆を超える犠牲者を出す勢いだ。

これほど感染が拡大する理由は、感染力の強さと致死率の低さが原因だ。致死率が高ければ、感染者は人にうつす前に死んでしまうので封じ込めやすい。しかし、なまじそこが低いために、感染しても元気に動き回れる人々が感染を拡大させてしまうのだ。
東京、大阪など、発達した公共交通機関に支えられている大都市ほど感染に対して無防備となる。なぜなら、それらを封鎖すれば容易に経済破綻を招くからだ。おそらく、時間の問題で東京、大阪の感染爆発は避けがたいとみるのが妥当だろう。よって、今後は航空旅客機の運行停止、鉄道網の運用制限と都市封鎖を行い、大都市から地方都市への蔓延を防ぐ手立てを講じることが必要だ。

感染の性質上、政治が何も手を下さなければ、患者数は指数関数的に増大するので、日本であっても医療崩壊を招く可能性は高い。現在の日本における致死率の低さは国民一人一人の節度と医療のキャパシティーによって担保されているに過ぎないからだ。
重症化率を20%と考えて感染した5人のうち一人は病院での加療が必要になるわけだが、医療崩壊により病院での加療が受けられないとなれば当然致死率ははね上がる。仮に致死率が5%まで達したとすると(イタリアでは8%を超える)、感染が蔓延した場合、20人に一人が亡くなる計算だ。死ぬのは高齢者が中心だとはいえ、若年者もこれに含まれないわけではない。ウイルス拡大を野放しにするのは皆でロシアンルーレットに興じるのと同じことなのだ。
自分が死ぬのはまだ良い。しかし、愛する者が失われて自らが残されることは耐え難い。人との関りを絶った孤独な人生を歩んでいるのでなければ、この局面で泰然自若を貫くことは誰にもできない。

武漢肺炎ウイルスの一番の問題は、感染対策を強化すればするほど、あらゆる経済活動が滞り、ウイルスで死ぬことがなくとも、食べていくためのお金が底をついて死んでしまう可能性があることだ。政治にはこの種の葛藤がつきもので、あちらを立てればこちらが立たずという具合に、最大多数の最大幸福を満たす解を求めるのは困難を極める。政権には難しい選択が迫られることになるが、既にある失敗例に学び、同じ轍をふまぬように善処してくれることを願わずにはいられない。おそらく、この騒動は有効性の高いワクチンが普及するか、国民全体が集団免疫を獲得するまでは終わらないことだろう。それまでの間、我々一人一人が感染者のつもりで他人にうつさないような行動を心掛けるべきなのだ。

<バドミントン選手はいかにして筋肉を鍛えるべきか>

■速筋繊維と遅筋繊維
筋肉を増やすには、いわゆる速筋繊維を鍛えるのが効果的であるという理屈で、10RM(Repetition Maximum)10回で限界を迎えるような負荷強度で3セット程度の筋トレを行うのが良いというのが、現在の標準的な考え方なのだという。
筋繊維には速筋繊維と遅筋繊維とあり、前者は酸素を必要とせずに収縮し、瞬発力に優れているが疲れやすいという特質を有している一方、後者は収縮に酸素を必要として持久力に優れているが瞬発力に欠けるという特質を有している。

■筋トレは競技別に異なるはず
確かに、速筋繊維に特化したトレーニング方法は、筋肉を増やすという目的には適っているかもしれないが、競技によっては、必ずしも有益だとはいえない場合がある。例えば、重量挙げの選手のような肉体をつくっても、バドミントンのような俊敏性と持久力の両方を要する競技には不適切というわけだ。つまり、速筋繊維を鍛えて起こる現象と遅筋繊維を鍛えて起こる現象とを引き比べて、競技の特質に適したトレーニング内容を考えた方が良さそうだ。

■速筋繊維を鍛えるということ
そもそも筋肉を増やすとはどういうことかといえば、筋繊維の中でアクチン、ミオシンたんぱくが合成されて、筋繊維自体が太くなることだと考えられてきた。このタンパク質は、細胞の核の中にあるリボゾームと呼ばれる工場で、遺伝情報を元に生成されるので、筋肉細胞の核が多いほど、即ち筋繊維が多いほどたくさんのタンパク質が合成される。
しかしながら、筋繊維は、皮膚や骨の細胞とは異なり、細胞分裂して数を増やすことがないため、トレーニングでは筋繊維の数は増えない、即ち、その数の多寡は遺伝的な素因によるところが大きいと考えられてきた。ところが、最近の研究によると、そうでもないらしい。

■トレーニングで筋線維は増える
トレーニングによって筋繊維に微小な傷がつくと、その周囲にあるサテライト細胞が細胞分裂を起こして増殖し、増殖したサテライト細胞同士が融合することで新たな筋繊維ができあがるというのだ。また、増殖したサテライト細胞が損傷した筋繊維に融合する現象も認められるのだという。これにより、筋繊維はトレーニングによって核の数、筋繊維自体の数を増やすことができる。
こうした現象は、速筋繊維で起こりやすいため、速筋繊維を鍛えることが筋肉を効率よく増やすことができるという理屈につながるわけである。

■遅筋繊維を鍛えるということ
一方、遅筋繊維を鍛えることにはどのような意味があるのだろうか。確かに、比較的容易にできる負荷の小さいトレーニングでは、筋肉量の増加は見込めないが、遅筋繊維を反復して使うと細胞内のミトコンドリアが増えることがわかっている。ミトコンドリアは、細胞の中にあってATPと呼ばれるエネルギーをつくる装置である。故に、たくさんのATPがあると、ATPを使って収縮、弛緩を繰り返す筋細胞は長時間疲れずに動くことができるので、ミトコンドリアが増えることで持久力が上がるというわけである。
ミトコンドリアが増えるメカニズムは、筋肉の飢餓状態と関係している。筋肉を反復して使うことで筋肉内のATPが消費されて細胞が飢餓状態におかれると、核にある遺伝子が働きはじめ、ミトコンドリアを形成する成分が合成され、現存するミトコンドリアにこれが付加されてミトコンドリアの体積が増える。この現象を引き起こすのに効果的なトレーニングこそ、適度な有酸素運動で、これは遅筋繊維を鍛えることに相当する。

■ミトコンドリアを増やすトレーニングを
以上より、バドミントンでは長時間素早く動く必要があるので、筋繊維のミトコンドリアを増やすことが目的にかなっているはずだ。であるなら、冒頭に紹介した10回の反復で限界に達してしまうような負荷強度のトレーニングは不適切だということができるだろう。いたずらに筋力の絶対値を上げるより、素早く動けて尚且つ持久力の高い筋繊維を獲得することの方が、最大筋力を上げるよりも有用だと考えられる。即ち、負荷強度を低くしてできる回数のセット数を多くしたトレーニングが有用だといえるだろう。

参考:科学雑誌Newton別冊「筋肉の科学知識」

<イップスの原因と対策>

■始動時に起こるイップス
スポーツをたしなむ者は、競技経験が長くなるに伴い、イップスと呼ばれる競技動作の感覚の消失を経験することがある。バドミントンであれば、サーブのような始動時に発症することが多くなる。経験の長い競技者であればあるほど、サーブは無意識かつ感覚的に打っているものであるため、イップスを発症すると厄介だ。筆者も数年前からイップスを患っていたおかげでイップスに対する理解が深まった。

■イップスとは何か
イップスという現象は、大脳生理学的にいえば、左脳(言語・論理を司る)からの過剰な電気的信号による脊髄神経伝導路の寡占状態が原因だといえるだろう。過去の失敗経験に基づき、失敗を避けようとする意識が強く働くことで左脳が異常興奮し、そこからの電気的信号で脊髄の神経伝導路が塞がってしまい、右脳(イメージ、空間認識を司る)からのスイング・イメージが上手く手足に伝わらなくなってしまうために起こる現象だと解釈され得る。このために、イップスが始まると、スイング・イメージが全くわかなくなってしまう。経験豊富な競技者ほどイップスを生じるのは、失敗経験も豊富であるために、ミスを避けようとする意識が過剰に働くこと が原因だといえるだろう。また、そう考えると、理論上、イップスは右利きに起こりやすい現象で、左利きや両利き、あるいは右投げ左打ちの野球選手には起こりにくい現象だといえるかもしれない。実際、大成したアスリートほど両利きに通じる素因を持っている例には枚挙にいとまがない。

■イップスの対処法
よって、イップスを軽減せしめるには右脳からの神経伝導路の確保が課題となる。そして、右脳からの電気的信号を十分に手足に伝えるためには、左手の動きを強く意識することが重要だ。左手の動きは主に右脳でコントロールされているので、左手を意識することで、左脳からの電気的信号で寡占状態となった神経伝導路を無理やりこじ開けて、右脳からの信号を通す道筋ができるという寸法だ。よって、左手を用いた簡単な手癖をサーブまでのルーティンに取り入れるのも良いし、左手にブレスレットなどアクセサリーをつけて、否応なくそこを意識させるというのも一つの手である。それらと並行して普段から左手でラケットを扱う練習をする、あるいは左利きのフットワークを練習するのも効果的だ。

■イップスは心の弱さなのか
そもそも、イップスは心の脆弱さを意味する現象ではなく、失敗を避けようとする強い希求から生じる脳の異常反応で、モティベーションの高さが原因だともいえる。故に、イップスを起こさない選手はいないといってよい。選手は皆、試合中に大なり小なりイップスに近い感覚を生じていて、無意識の選択によって傷口を小さく保っているに過ぎない。要は程度の問題で、問題が重症化して初めて、難治性であることを思い知るだけなのだ。しかしながら、左手を意識してから動作に入ると、失ったイメージがわきやすくなる。失敗経験の蓄積がイップスを発症せしめるので、イップスをコントロールし得た成功体験を積み重ねることで、発症以前と同等に傷口を小さくできるようになるのだ。

■ イップスのコントロール
即ち、イップスを発症する精神状態を受け入れた上で、いかにしてそれをコントロールするのかを考えることが重要で、これを克服しようなどと気負ってはいけない。なぜなら、イップスを発症しないメンタルなどあり得ないからだ。それは、風邪をひかない体を手に入れることが難しいことと似ているかもしれない。肺炎を起こさない程度に風邪をひくがごとく、敗因とならない程度にイップスをコントロールすることが肝要だといえるだろう。

<ジュニアのハイバック指導について>

■ある疑問
最近、ジュニア世代のバドミントンのコーチングに携わる機会があって、疑問に思うことがあった。それは、バック奥に追い込まれたショットに対してハイバックショットを打たないよう指導する伝統的な躾についてだ。
実戦では、ハイバックで処理する場面は必ず訪れる。なぜなら、相手はそのように配球して攻めてくるからだ。その理由は、まさにハイバックで攻撃的な返球をすることが困難であるからに他ならない。要するに、ハイバックはそれだけ難易度の高いショットなのだ。

■ハイバックを制限する理由
では、何故実戦で必須となる技術であるにもかかわらず、ハイバックを制限する指導が行われるのかといえば、理由は大きく三つあるだろう。
第一の理由は、回り込んで打った方が攻撃のバリエーションが増えるからというもの。
第二の理由は、指導する側の印象として、バック奥の球をハイバックで返球する様は楽をしているように見えるということ。
最後に、最初に習うフットワークが、ラウンドからのオーバーヘッドストロークを前提としている都合上、バックハンドで処理してしまうと練習にならないということが挙げられるだろう。

■反例
しかしながら、いずれの理由も、ジュニアのハイバックを制限する根拠として薄弱な感が否めない。回り込んだ方が攻撃的であるという発想は、ハイバックが難しいショットであることが前提である。もし、これがフォアハンド同様、自在に打てるのであれば、攻撃のバリエーションを損なうことはないばかりか、華麗なハイバックショットは、それだけで相手を幻惑する攻撃的なショットとなり得る。最たる実例としてはインドネシアのヒダヤット選手のそれを挙げることができるだろう。

■練習の意義と至適時期
また、ハイバックは楽をしているから駄目だというのは、根底に、しんどい訓練こそが練習だ、という指導者側の思い込みがあるのではないだろうか。見た目通り、ハイバックで返球する方が、身体的な負担は軽くて済む。これは即ち、実戦ではハイバックを多用できた方が、体力の損耗を防ぐことができるという利点を表しているのだ。そもそも、練習とは、できないことをできるようにするために行うものだ。故に、ハイバックで自在に球を扱うことが高等技術であるなら、寧ろそれを積極的にジュニアから練習した方が良いはずだ。それは、高等技術であればあるほど、その習得は年齢的に早い段階の方が良いという医学的事実に基づいている。もともと体に負担の大きい練習は、骨端線の閉鎖後から積極的に行うのが理想的であり、それ以前となる脳神経の発達の旺盛なジュニア時代には、肉体的な負担の少ない高等技術の会得をこそ目指すべきなのである。

■ハイバックの利点
実際、バドミントンの開始年齢が早い選手ほど、成長とともにハイバックを巧みに使いこなし、試合では体力を温存してトーナメントを駆け上がることが容易になる一方、開始年齢が遅い選手ほど、ラウンドからの攻撃を多用せざるを得なくなる様を見かける。この、「多用せざるを得ない」という事実が重要であり、ハイバックの会得がもたつくと、球種の引き出しが少なくなって体力的に不利になるのだ。
結果、身体能力が同定度の選手で比較すれば、ラウンドからの攻撃の多い選手は、怪我をする機会が多くなってしまうし、トーナメントの終盤ではプレーの精彩を欠くことも少なくないといえるだろう。

■ハイバックのためのフットワークを
つまり、ジュニアのハイバックを制限する理由として、わずかばかり妥当性があると考えられるのは、フットワークの練習にならないということぐらいだ。だが、これはそもそも、ハイバックを軽視した発想だといえる。本当は、ハイバックで処理するためのフットワークも合わせて練習すれば良いだけの話なのだ。

■指導者はいかにあるべきか
ジュニアの指導者が最も注意すべきことは、子供たちのもつポテンシャルを妨げないこと、怪我をさせないことだ。しかるに、ハイバックを打たせない指導をとることは、潜在能力の発揮を妨げることに通じるだけでなく、身体的な負担をかけて無用な怪我を助長せしめ、将来の可能性を摘んでしまう結果をももたらしかねない。

■根拠なき指導
総じて、ジュニアのハイバックを制限する指導の優位性には根拠がない。ただあるのは、過去の指導者がそういう指導を行ってきたという伝統だけだ。もし、その優位性を主張するのであれば、ハイバックの練習を抑制した群と、積極的に行った群とで、10年の歳月を費やした前向き研究が必要なのだ。スポーツ医学的に考えれば、ハイバックを早期から積極的に練習した群は、怪我も少なく、高度な技術を使いこなして結果を残すと予想されるのである。

■悪しき伝統の放逐を
過去の指導者が伝統に基づいて行ってきた指導には過ちが沢山ある。その最たるものは練習中に水分摂取を制限することだろう。これは医学的な前向き研究によってその妥当性が完全に否定されたが、その由来は飲まず食わずで戦える兵士を養成するための訓練が学校体育に移植されただけの話だった。これは無批判に伝統を受け入れることにはリスクがあるという好例である。今すぐに結論を出すことはできないかもしれないが、ジュニアのハイバック指導については、各々の指導者が、あらためて再考すべき時ではないだろうか。

<アスリートの救済④肩痛>

■アスリートの肩痛
野球やバレーボール、バドミントンやテニスの競技者の患う肩のトラブルは、それらの競技における肩肘の用い方に共通点があるため、その病態生理も似通ったものとなることが多い。
ここでは、アスリートの肩痛の中でも、柔道などの直達外力で起こる損傷ではないものについて、病態生理と治療法を詳述してみる。

■肩関節の特質
肩関節は他の関節に比べて可動域が広い分、不安定な特質を有している。このため、力学的な負担に対して安定を保てる肢位が限定されている一方、構造上、上腕骨頭の広範な動きに対する空間的な余裕もなく窮屈にできている。
肩甲骨から伸びた4つの筋肉(棘上筋、棘下筋、小円筋、肩甲下筋)が腱性となって上腕骨頭を包み込むように停止しているのが腱板で、この腱板の構成成分に弛緩不全を生じると、動作時に上腕骨頭が至適軌道から微妙にずれてしまうと考えられる。いずれも軽微な変化には違いないが、窮屈な構造の中にあってはインピンジメントを生じる原因となるというわけである。

■インピンジメントとは
インピンジメントとは、簡単にいえば上腕骨頭と、その周囲の壁との間に腱板や滑液包などが挟み込まれる病態を指す。肩甲骨側の壁は関節窩となるので、上腕骨頭と後方関節窩の間に関節包が挟まるインピンジメントは関節内にあってinternal impingementと呼ばれる。それ以外の壁は関節外となるのでexternal impingementと呼ばれ、前方の壁は烏口肩峰靭帯でcoracoid impingementを生じ、上方の壁は肩峰でsubacromial impingementを生じる。
スポーツをしていると、肩の動作時に「ひっかかる感じ」として急性一過性のインピンジメント症状を経験することがあるが、肩の動的ストレッチで即座に症状軽快することから、インピンジメントは肩の使い方だけの問題ではなく、腱板構成成分の弛緩不全で生じると推論されるのだ。
もとより、アスリートの肩痛も五十肩も、肩腱板構成成分の弛緩不全に端を発した腱板炎であるという点で共通している。ただ、アスリートの場合はover useで、五十肩はdisuseで生じるということが大きな違いだろう。

■真の原因は腸腰筋の慢性疲労にあり
アスリートの肩痛と五十肩のもう一つの違いは、前者の場合、肩腱板は被害者のようなもので、真の原因は腸腰筋の慢性疲労にあることが多いという点だ。即ち、腸腰筋に生じた筋肉の慢性弛緩不全こそが、肩を患う原因なのである。そのメカニズムに関しては以下のごとくで、バドミントン選手を例にとって詳述してみる。

①腸腰筋の慢性疲労(弛緩不全)により、ショットに力が乗らなくなる
②上体の動きでショットに力を与えようとする
③上体の開きが早くなる
④インパクト時における肩甲骨と上腕骨のなすべき適切な角度が崩れて広がってしまう(肩甲骨の関節面は35度前方を向いているので、上腕骨と前額面のなす角度は145度が至適角度)
⑤腱板を構成する筋肉に加わる力学的なエネルギーの不均衡を生じる
⑥腱板を構成する筋肉の局所に偏った慢性疲労(多くは肩甲下筋や棘上筋の弛緩不全)を生じ、インピンジメントの原因となる
⑦筋肉の弛緩不全による腱板への過剰な牽引負荷とインピンジメントの両方で腱板損傷に至る

という具合だ。これは野球選手やテニスプレーヤーにおいても同様の考察があてはまることだろう。
じわじわと時間をかけて①から⑦へと進行していくので、競技者本人には原因がわかりにくいといえる。このため、治療は腸腰筋の弛緩不全の解消、腱板を構成する筋肉群の弛緩不全の解消、適切なインパクトを行うフォームの再教育の三本柱で行うことになる。
フォームに関しては、インパクト直前に一瞬上体の動きを止めることでその開きを抑え、利き手と反対側の肩がインパクト時に後方へ流れるのを防ぐよう矯正する。具体的には利き手と反対側の上肢を抱え込むような仕草を意識して取り入れることである。

■競技初心者の肩痛
競技初心者の場合、単純に肩の使い方が不適切でインピンジメントを生じていることがほとんどだ。オーバーヘッドストロークにおける肘の位置が高すぎる場合などがそれだ。「耳の横から肘を通せ」という伝統的な指導を忠実に行うことで生じるケースが多いが、実際のフォームでは、正面から見て肘の高さは両肩を結ぶ直線の延長上にあるのが正しい。即ち、打点を高くする場合、利き手の反対側の肩を低く落とす必要があるのだ。
このため、左肩を落とすことなく右肘を耳の横から通そうとすると、肘関節が至適位置から外れて肩関節は不安定となり、インパクト時の衝撃を十分に受け止めることができなくなってしまう。
故に、肘の高さを正面から見て両肩を結ぶ直線の延長上におき、上腕骨と前額面のなす145°の角度を保ったフォームでインパクトを行う必要がある。実は、この両肩と肘関節の位置関係は、サイドアームストロークでもアンダーハンドストロークでも変わらない。前者では利き手の反対側の肩の高さが利き手側と同じになり、後者ではそれより高くなるだけだ。野球なら、内野手の投げ方はサイドアームストロークにおける肩、肘の使い方と同じで、投手の場合、上手投げはオーバーヘッドストローク、下手投げはアンダーハンドストロークにおける肩、肘の使い方と等しくなる。

■整形外科学の盲点
残念ながら、筋肉の慢性弛緩不全が病気を生ずるという概念が今日の整形外科学に存在しないため、かくのごとき視点で治療にあたる整形外科医は少なく、大抵はステロイド関節腔内注射による対症療法と安静指示で終わってしまいがちだ。しかしながら、原因となっている筋肉の慢性弛緩不全を解消することなく安静を継続しても完治はせず、症状を繰り返すだけである。
原因を解消した上で組織の修復を促すのが本当の治療であり、そのためには股関節や肩関節におけるMedical Dynamic Stretchingが必要不可欠なのだ。

<無意識の刺激>

■推論
筋肉が弛緩不全を起こし、その状態が持続することで整形外科の病気を発症するという理屈を説きはじめた頃、弛緩不全にいたる原因について、頻回の酷使による疲労性と、逆に長時間同一姿勢を継続することで生じる廃用性があると考え、慢性的な脱水や寒冷刺激、あるいは精神的ストレスや喫煙習慣が、その状況に拍車をかけるものと推論していた。

■脳の機能不全
この7年間で、それらの推論は概ね正しかったことが確認できた。そして、弛緩不全の原因は、いずれも患者本人には自覚のないことが共通していた。例えば、慢性的な脱水状態や、寒冷刺激は、どちらも患者本人には自覚がなかったのである。それは、口渇や、暑さ、寒さを感じる脳の機能不全が関係しているものと考えられた。

■無意識の寒冷刺激
小児や高齢者では、脱水でも喉が渇かず、寒い環境にいても、寒いと感じない。この故に、筋組織内脱水を呈することは勿論、無意識のうちに長時間の寒冷刺激にさらされることで、肉体は体温を維持しようとして筋肉を収縮させ、そこに弛緩不全を生じてしまうのだ。秋ごろの発症で冬季に治りかけていた多くの患者が、寒気の到来とともに足並みをそろえて症状を増悪させたため、この寒冷刺激の存在を意識せざるを得なかったのである。

■無意識のストレス
この他、神経伝達それ自体の機能不全によって、収縮した筋肉を弛緩に転ずることがうまくできない現象も確認できた。小児では未発達故に、高齢者では機能衰退の故にである。子供も老人も、体の力を抜くことが上手にできないのだ。おそらく、今後は無意識の精神的ストレスで筋肉に弛緩不全を生じている症例を蓄積させていくことになるのだろう。

<健康になりたければ>

■堕落のわけ
さて、かくある経営コンサルタントが病院に入ってきた理由は、当時、医療費高騰の名のもとに、苛烈な医療費削減が行われていたからだ。20年以上前から、医療費が日本の財政を食い潰すという危機感を煽った一人の厚労省役人の発想に従い、国は無分別に医療費を削減してきた。同じころから米国の保険会社のコマーシャルをテレビでみかけることが多くなり、医療業界では国民皆保険の存続が危ぶまれる声をきくこともまた多くなっていた。即ち、国政の故に病院は商店へと堕落せざるを得なかったのである。

■過剰な医療
しかしながら、実際問題、この医療費高騰論にはほとんど根拠がなく、後に、過剰な医療費削減の実態が明らかとされるに至った。とはいえ、一度堕落してしまった医療業界は、商魂たくましく利益を追求する性癖を手放せなくなっていたのだ。この故に、本来、高齢者にはできるだけ自然な形で天寿を全うできる簡素な医療を提案すれば良いものを、過剰に手を加えて利益に還元しようとするわけである。死に至る自然な過程を病気に見立ててしまえば、どんな治療もまかり通ってしまう。皮肉なことに、国が医療費削減を進めた結果、医療費の無用な肥大化を招いてしまったのだ。それが証拠に、過剰な医療を施さない北欧に寝たきり老人はいない。寝たきりになるずっと以前に旅立てるからだ。寝たきり老人がいなければ、その分医療費も安く上がる。そもそも、歩けなくなった老人を無理やり歩かせる必要もなく、食べなくなった老人を無理やり食べさせる必要もないのだ。それらは皆、死に赴くのに必要な過程の一つに過ぎないのだから。

■稼ぎになる治療
整形外科学においては、手術適応という考え方がある。特定の疾患に対し、患者本人の年齢、職業、社会的背景などに応じて、手術の必要、不必要を判断するのだ。だが、大病院においてはこの手術適応が拡大する傾向が生じる。理由は簡単。手術を行った方が稼ぎになるからだ。かつて、米国で悪名高いロボトミー手術が盛んにおこなわれた経緯も、理由はそこにあった。
もとより、患者は誰もが皆、手術を受けたくて受けるわけではない。それ以外に治る見込みがないと医者に言われるから仕方なくするだけだ。本当は生活を正しさえすれば、時間をかけるだけで自然治癒力が働き、何もしなくて良い場合が多々あるにもかかわらずだ。けれども、それでは稼ぎにならないから、無用な治療が次々と施されるのである。

■AIの提案
つい最近、AIからなされた提言は大変興味深いものだった。
「健康になりたければ病院を減らせ」であったという。