眠れぬ夜に思うこと(人と命の根源をたずねて)

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zoom RSS <国家、この観念的なもの>

<<   作成日時 : 2011/01/24 18:52   >>

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国家の存在意義とは何であろう。それは、個人がより安全に暮らすための道具に過ぎないのだろうか。
実のところ、多くの人間にとって、実感としてある共同体は家族や会社、せいぜい地元町内会の類である。そこから先の市町村や都道府県といった共同体には明確な顔がなく、観念的な存在となるのを避けられない。それが国家、あるいは世界ともなると、これを実感とともに認知するのは、極めて困難だ。
日本の第一線で活躍する、ごく一部の科学者、スポーツ選手といった人々だけに、世界を肌で感じることのできる機会があるといえそうだが、それにしたところで、極めて限定された世界には違いない。

にもかかわらず、核武装の是非に関し、思想や信条の根本からこれを論じようとすると、決まって観念的で現実的ではないといった批判を浴びる。ところが、そうした批判を寄せる御仁にしたところで、どれだけ国家の存在を実感としてとらえているか、怪しいものである。せいぜい、どこそこの国のミサイルがどれだけわが国に向けられているといった軍事情報に基づく偏った世界観に過ぎないのではないだろうか。
彼らの多くは、ヤクザ国家に囲まれた国情を、個人が無法地帯を歩く状況に例える。しかし、国家と個人とを同一次元で論じることには、そもそも難点がある。それは、国家と個人、どちらが上位の存在であるのかを無視することになるからだ。

実際、共同体がより上位になるにつれ、そこには、様々な理念なりビジョンなりが高らかに宣言されるようになるものだ。上位の存在は、より下位の存在に対し、あるべき姿を示す役割を担うためだ。共同体に属する人々の紡ぎだす最高位の理念が、そこに表現されるようになるわけである。さすれば各々の国にある憲法に表現される精神は、思想次元において、もっとも崇高でなければなるまい。なぜなら、その理念の如何によって、そこに住まう民衆の意識もまた、少なからず影響を受けることになるからだ。

結局、国家という、観念的存在のあるべき姿を論じるためには、観念的な議論から出発せざるを得ないということではないだろうか。国家はそこに住む民衆の道具、即ち下位にあるのではなく、それより上位の存在として、あるべき姿を示さねばならない。さすれば、上位のふるまいを論じるために、下位のふるまいを当てはめるのは、上位存在を下位存在に引きずり降ろす蛮行に等しく、適切とはいいがたいことだろう。
そして、もともと国家というものが観念的存在であることを認めるならば、それが表現すべき最高位の理念がどこにあるかをいうのは、決して難しいことではないはずだ。

とはいえ、ガンジー主義は、最高位の理念ではあるものの、犯罪のなくならぬ世の中にあって、個人の抱える、今ある現実には適さぬ精神ではある。しかし、ガンジー自身の精神は、その肉体が失われて尚、世界中に芽吹き、いたるところに受け継がれているのは間違いがない。そのハートは時を越え、氏と同等の意識を共有する人々の間で生きつづけているのである。そのような永久の命に価値を見出すのか、それともあくまで限りある命にしがみつくのか、人類に対し、神よりつきつけられし命題が、核武装の是非であるように思えてならない。

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