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zoom RSS <原発再稼働の詭弁>

<<   作成日時 : 2015/04/29 15:04   >>

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最近、原発推進派たちは既に崩れ去ったはずの「原発がなければ電力が足りない」という迷妄を、あの手この手で復活させようと躍起になっているようだ。彼らによれば、電力は電力会社の必死の企業努力によってまかなわれているだけで、本当は足りていないのだという。そもそも、電力会社が必死で電力をかき集めねばならなくなったのは、安易な国策に便乗した結果であり、半ば自業自得。原発なしでも、当面、電力が足りているのは事実であるし、そこには既に4年の実績がある。実際、震災以前の原発必要派の主張によれば、原発停止は即時の電力不足を意味していたはずだが、そこは見事に欺瞞が明らかにされた格好だ。反原発を主張してきた小出教授は、震災のずっと以前から、原発なしでも電力不足を起こすことはないと主張しており、それははからずも震災が証明した。それでも、ここへきて原発が必要だとか言っている人たちは、もう少し論理的な反原発派の主張に耳を傾けるべきだろう。

そもそも、原発の効率性なるものが担保されていたのは、無駄な発電の多い原発の欺瞞を取り繕うために、稼働可能な火力発電をわざわざ停止させていたことによる。小出教授は、その欺瞞を指摘して、未稼働の火力発電を用いて節電に努めれば、原発即時停止には問題がないことをずっと以前から示していたのだ。実際、日本の火力発電は効率がよく、原発のエネルギー効率にアドバンテージがないことは、原発をつくる以前の科学技術庁の調査で明らかだった。しかし、将来の核武装を見越した正力松太郎、中曽根康弘両名の思惑によって、科学的事実は覆され、物理学者らの忠告も無視され、国策として原発が無理やり推進されてきたのだ。原発をつくれば国から金をもらえる電力会社は、こぞって原発づくりにいそしんだ。そして、その結果が福島の惨状を招いたのである。

故に、電力会社は、その時代の判断の誤りのつけを現在払わされているに過ぎず、それを以て必死の努力だとか何とか囃し立てて、原発再稼働を謳うのは筋違いというものだ。この四年間、原発停止を直接原因とする大規模停電のニュースを誰も耳にしたことはなく、電力が足りないというより、電力の売り上げが、必要とされる投資に追いつかないという事実があるに過ぎない。

もともと、国土が狭く地震の多い我が国に原発は造るべきではなかったのに、これに依存する社会をこしらえてしまったことが今日の窮状を招いた原因なのだ。その尻拭いをするのに膨大な経費が嵩むのは自明の理。けれども、その負担を少しでも軽減できるという理由で安易に原発を再稼働すれば、さらに後々の負担を増大させてしまうリスクが高いのである。原発は稼働させようがさせまいが、どのみち将来に膨大な負担を強いられるわけで、それを考えれば即時停止が英断だといえる。将来に抱える負担がみえにくいから、あるいは、目先の負担があまりに巨大であるから、原発容認や推進の意見が途絶えないだけなのだ。とはいえ、即時停止といっても、もとより廃炉技術が確立されていない、核廃棄物を捨てる場所もないというのがわが国の現状。これはまさにブレーキのついていない車に乗っているようなもので、原発再稼働派の理屈は、止まることができないから走るしかないと言っているようなものである。

現状、大規模停電していないのは、高コストの送電網を高い電気料金で維持しているからなどという意見も耳にするが、これは逆に、企業努力や設備投資の余力がありさえすれば、原発がなくとも即時電力不足に陥るわけではないということを意味している。問題は、このまま原発を稼働させることなく、脱原発を行いながら経営を持続させるだけの企業体力が、電力会社の側にないというだけの話だ。原発がないと、電力を供給できないという話ではないのに、意図的に話がすり替えられているわけである。

解決策としては、経営の逼迫した既存の電力会社を国営化して国に電力事業の責任を負わせる一方、原発国債を発行して、脱原発のための負担を未来の国民を含めた多数世代で共有するという方法が考えられる。同時に、規制緩和によって企業や個人レベルの自家発電装置の普及を推進するという手もあるだろう。インターネットをほんの少し検索するだけでも、新しい発電のアイディアは豊富にそろっており、行政の後押しを待つばかりという現状だ。確かに、太陽光や風力など、自然エネルギーを利用した発電形態は、容量依存性にプラントが巨大化してしまうので、原発の代替エネルギーには成り得ない宿命である。要するに、大量供給に向かないのだ。よって、今後は企業や個人が様々な自家発電装置で以って電力を自給自足させていく方向に政策の舵を切れば良いのではないだろうか。そのためのテクノロジーは既に存在しており、それまでのつなぎとして、従来型の大量発電、大量送電の主役は火力発電で良いだろう。

しかしながら、この新しいタイプの自家発電装置の普及には大きな障壁がある。即ち、既存の電力利権、原発利権を得ている政治家や企業からの反発、抵抗が必至であるということだ。 ネット空間の議論を俯瞰していると、もともと、こういうアイディアを嫌う利権保持者が、先のような問題を、“原発がなければ電力が足りない”という話にすり替えて喧伝してまわり、自分の頭で物事を考える力の足りない人たちが、その言説に騙されて原発必要論に傾いているという構図が見えてくる。勿論、原発を廃炉にしながら火力発電所を新設するというのは、電力会社にとって自殺行為に等しい投資で、彼らが騒ぐのも無理からぬ話ではある。 ゆえに、原発がなければ電力が足りないというのは、単純に言って「嘘」なのだ。これは電力を維持しようと頑張っている人たちに対する侮辱でもなんでもなく、事実そのものを表しているに過ぎない。

ところで、ここでいう自家発電装置とは、既存のシステムを指すのではなく、化石燃料に依存するだとかの現行の自家発電装置の問題点をクリアするレベルの新技術を想定している。ただ、それが市販ベースとなるのにタイムラグが生じるのは当然で、それまでは火力発電所を新設する方向で良いという話だ。未来は流動的で、現状が永続するはずもなく、それは常に想定外の連続である。その想定できない未来にどう対応していくか。それこそは選択であり、明確な国民の意志なのだ。原発に依存しないという決断の下に、それでも、“できる方法”を探す。技術革新は常にその時代の人々の想像を超えている。過去に、塩水で動く自動車を誰が想像し得ただろうか。今やそれが現実となり、スーパーカー並みのスピードと航続距離を有する時代となった。

必要は発明の母。“できない理由”ばかりをあげつらい、だから原発に頼らざるを得ないというのは、結局のところ、創造力の貧困さを意味するものでしかないだろう。 我々の選択、その決断がどうであったかは、いずれ歴史が評価することになる。後世の人々の厳しい視線にさらされて尚、時代の担い手として我々原発世代が誇ることのできる選択は、自ずと限られるのではないだろうか。

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