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zoom RSS <原発推進派の死角>

<<   作成日時 : 2013/07/21 01:22   >>

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原発推進派は、福島の事故は人災なのだから、人がより謙虚に対策を講じさえすれば事故は防ぎ得ると主張する。だが、果たして本当にそうなのだろうか。
福島第一原発事故に限らず、原発事故はどれも人災である。なぜなら、原発を造り、これを管理、運営するのは人間だからだ。人間はもともと不完全な存在なのであり、不完全な存在が造るものは完全ではあり得ないし、完全な仕事をすることもできない。即ち、人間が謙虚でありさえすれば、いかなる有事の際にも万全な対策をとり得るはずだと考えるのは、人間存在に対する幻想でしかなく、人災だから防ぎ得るという理屈は成立しない。

また、脱原発に向かうと無駄な国費を投じることになるという主張もある。確かに、脱原発に向けた努力を直ちに行えば、景気は一時的に低迷するかも知れない。このために与党は脱原発を選択できずにいるわけだ。しかし、では原発を稼働し続ければそれで安泰なのかといえば、決してそうはならない。
実のところ、原発は、そこに課せられる安全基準が高くなればなるほど、安全を確保するために投じるべきコストが大きくなり、エネルギー効率が悪くなるという本質的な矛盾を抱えている。つまり、それを造る側がより完全なものを造ろうとすればするほど、コストは跳ね上がるのである。その結果、原発が建設され始めた当初と比べ、エネルギー効率は格段に悪化してしまった。現に、シェールガス革命で天然ガスによる火力発電の方が圧倒的に効率が良くなったため、電力市場が自由化されている米国では、耐用年数に満たない無事故の優良原発が次々と廃炉への道を強いられている。

そもそも、人間に寿命があるのと同様に、原発にも寿命があるわけで、それが廃炉となる際には莫大な費用が発生する運命を避けられない。安全基準が高くなることで、廃炉に伴うコストも高騰する一方なのである。即ち、将来の廃炉を想定すべき原発運用には初めから巨額の費用が発生することが不可避であり、原発は稼働させた方がお得であるなどという理屈はナンセンスだ。理論上ですら、稼働し続けられる原発は存在しないのだから。
結局、原発推進の意味するところは、今後もそうした危険かつ低効率なお荷物を増やし、子々孫々に負担を押し付けようと言っているようなものである。原発の効率が保障される期間は限定的で、原発推進派の主張は近視眼的視座で問題を先送りにしているに過ぎない。今、脱原発に向けた費用負担を惜しめば、将来、さらに巨額の負担を強いられることだろう。

一方では、原発の問題は単に技術的な問題なのだから、核関連技術が一層進歩すれば原発もどうにかなると考える向きもある。だが、 新しい技術には、常に新しい危険が伴うのだ。果たして、わが国で初めて原子力発電所が造られるようになったとき、福島のような惨事が起こることを予期し得た人間が何人いただろうか。少なくとも、原発御用学者である専門家諸氏は、理論上、このような事故は起こらないと断言していたのである。福島の事故は、人間の不完全性を悟れぬが故の過ちなのだ。
実際、理論値としての10センチの線分を引くことすら、人間には不可能なのである。どんな達人がペンを握って格闘しても、幅をもたない直線を引くことはできず、長さにしたところで、せいぜい10.00が関の山。10.000000∞など100パーセント不可能。
つまりは、たとえ図面や理論上で安全な代物であっても、それは人間がその不完全な頭で考えた上に、不完全な作業を重ねて造りだすものであるということだ。そこに期待される安全のレベルなど高が知れているというものだろう。

かつて、核兵器開発に携わっていた科学者集団の多くは、これを実際に敵国に対して使用する必要はないと考えていた。つまり、示威行為で十分で、生きた人間相手にこれほど無慈悲で凶悪な兵器が使われたりはしないだろうと高をくくっていたのだ。彼らは、原爆の誕生こそが世界に平和をもたらすと信じてその開発に携わっていたのである。しかし、そうした科学者たちの予見はものの見事に裏切られ、人間は、目的のためには手段を選ばずという退廃の極致をヒロシマ、ナガサキで表現してみせた。
核関連技術がいかに恐ろしい惨事を引き起こすかを知っている日本人だからこそ、技術至上主義に陥って、何が本当に大切であるかを見失ってはなるまい。

もとより、日本人の矜持とは、他のいかなる国の人々より、惻隠の情と無常観を強く有する民族であるということではないだろうか。前者は相手を自分自身のこと以上に思いやる優しさであり、後者は、森羅万象の移ろいをあるがままに受け入れ、形あるものに拘泥しないという哲学だ。勿論、方々に異論はあるだろうが、日本人の矜持とはかくのごとしだというのが、偽らざる私見である。
ゆえに、産業なき貧しい地方は原発のリスクを受け入れたとしても仕方がないと構え、そこに暮らす人々の身を危険にさらし、自然を台無しにしてしまうことを良しとする都会中心的発想も、目に見える現世的な富と豊かさを維持するためにはそれもやむなしと構える刹那的な発想も、伝統的な日本人には似つかわしくないといえるだろう。

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
私も先生と同意見です。原子力は素晴らしい技術ですが、反面危険が高すぎ、それは実際には人の手に負えないものだと思います。
どうしてうまく危険を制御出来ないのかと考えた時、やはり利権が絡むのが大きいのではと考えます。
ご指摘されておられますが、危険性を確実に正当に評価して高度な対策を行えば、それだけ費用が掛かり採算が合わなくなり、最悪は維持が難しくなるようです。
福島原発においては、津波の危険性を以前から認識していたにも関わらず、ついに対策は講じられず事故が起きました。
また、原子力が危険だと公言しそういう認識を必要以上に広めてしまえば、反対運動を呼び込む事にも繋がりかねません。
いま現在原子力利権にあやかってる連中は、原子力を危険だと認めたくない、そして原子力事業を後退をさせるような事は絶対に出来ないのでしょう。

原子力関連の事故隠しをまとめたページがあります。
http://goo.gl/rIy1D
http://goo.gl/GXLed
なぜこのような隠蔽が繰り返されるのか。そこにはやはり原子力事業を後退させられないという強い思惑が関わっているのではと思います。
つい先日も、海への汚染水流出の事実の公表が遅れました。
原子力利権に群がる連中に謙虚さを期待出来るでしょうか。私は隠蔽や嘘の報告させるような連中に全く期待が出来ません。
膨大な利権の前には、人間は謙虚さなど保てないのでしょう。いや、むしろ元から強欲な人間たちが少なからず集まって来ているのかも知れません。
謙虚に対策を取ればいいというのは、原子力事業を巡る事実から掛け離れた、虚しい空論に過ぎないように私には思えます。残念な事です。
maru
2013/07/28 14:29
maru様、コメントありがとうございます。

>謙虚に対策を取ればいいというのは、原子力事業を巡る事実から掛け離れた、虚しい空論に過ぎない

おっしゃる通りですね。
原発は、原爆とともに、節度を失った人のエゴを象徴する存在だと小生は思っています。
ひょっとすると、各々に巣食う無意識的な我欲の強さが、それらを肯定せしめるのかも知れません。
仮に、神が人間を性質の違いで二つに峻別するのであれば、その判断材料として、これほどわかり易いテーマはないといえることでしょう。
SHO
2013/07/28 21:01

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