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zoom RSS 「No10<現代教育に思うこと>」について

<<   作成日時 : 2005/04/30 13:45   >>

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No10<現代教育に思うこと>」について
<現代教育の誤算>
現代教育は、従来の詰め込み型の教育に対する反省から、ゆとり教育の名のもと、教える内容を大幅に削減し、競争を否定することで、子供たちの向上心や、学問の意義を崩壊させてきたのではないだろうか。
近年、文科省は事実上、ゆとり教育の失敗を認めた形で、指導要領の変更を余儀なくされた。
結局、競争や知識の詰め込みが間違っていたわけでなかったことを、ゆとり教育の失敗が証明してみせたのだ。

本来、競争によって優劣をつける行為は、個性発揮の場を設けることであり、多様な個性を容認する価値観のあらわれであるということができる。
よって、これを否定することは没個性崇拝を助長するものであり、競争や詰め込み教育が現代教育のかかえる病の主原因ではありえない。
では、現代教育は何を間違えていたのだろうか。
私はそれを唯物論的価値観のもとで説かれる平等、自由、博愛に見出している。

平等思想は幻想である。
なぜなら「自然」に平等が存在しないため、我々の抱える現実には、最初から平等などありえないからだ。
にもかかわらず、全ては潜在的に平等のはずという幻想のもと、もともとありえないものの中に、見た目の現実を無理やり押し込めようとするから、社会に歪が生じるのではないだろうか。
また、自由が大事というが、互いが互いの自由を際限なく主張すれば、利益分配に関わる法整備を厳しくせざるを得なくなり、結果的に、我々の自由は狭まるだけである。
博愛の精神などといっても、不細工を愛すことができぬように、愛せぬものを無理に愛することなどできようはずもない。

我々の抱える見た目の現実において、平等、自由、博愛を説くのは偽善であり、欺瞞である。
ところが、社会にはこれを絶対視する価値観が優勢だ。
これが、我々の社会に巣くった病の原因であるだろう。

だがその一方、我々が皆、等しく霊的存在であるという自覚がなされるならば、そこに神の御前における平等、霊的存在としての自由、互いの霊性を認め合う博愛が成り立つことだろう。我々の本質が霊的存在であるという自覚のあるなしで、平等、自由、博愛のもつ意味は全く異なってくる。
こうした自覚があってはじめて、社会の歪が正されるのではないだろうか。
間違っていたのは競争でも詰め込みでもなく、唯物論であったのだ。

唯物論:宇宙の諸現象の本質は主体を離れた客観的な物質であって、人間の精神も物質としての頭脳の機能の一つに過ぎないという説。
狭義ではマルクス主義を指す。 三省堂 新明解国語辞典


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